福沢諭吉ってどんな人だったのか❓
明治維新以降の日本の近代化は驚くべき速さで進んだ。この要因は、日本の官僚が優秀だったこともあるが、それを裏で支えていたのは、欧米の良い点を日本の社会にうまく取り入れっていった人である。その中で最も活躍したのが福沢諭吉である。諭吉は、電気や鉄道の発達もさることながら、それを支える欧米人の考え方に注目した。封建社会のもとでは当たり前とされていた慣習や習慣を疑い、改めて考え直し、近代社会の思想を言論や教育を通してアップデートさせた。
福沢諭吉の一生 早見表
1,835年1月10日、大坂(今の大阪府)に生まれる。父は中津藩の藩士。下級武士の家庭に生まれたため貧しかった。
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1歳 父が亡くなり、一家で九州の中津に帰る。
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19歳 長崎に出て蘭学を学び始める
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20歳 大坂に出て、適塾にはいり、蘭学の勉強に励む
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23歳 江戸に出て、蘭学の塾を開く
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24歳 英語の勉強を始める
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25歳 幕府の使節団の船、咸臨丸に乗ってアメリカに行く
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27歳 幕府の使節団としてヨーロッパに行く
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33歳 蘭学の塾をもとに慶應義塾という学校を創立する
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37歳 『学問のすすめ』第1編を出版する。この後、4年かけて計17編を出版
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39歳 スピーチ(演説)の勉強をするため、「三田演説会」を始める
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55歳 慶應義塾に大学部がおかれ、日本に初めての私立総合大学となる。
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1901年2月3日66歳で亡くなる
少年時代の諭吉
- 勉強嫌いだった❓
教科書は中国の書物で、漢字ばかりで何が書いてあるのかさっぱりわからない。家の手伝いもしな ければならない。諭吉は嫌いな勉強は無理にはしなかった。だから他の武家の子よりもずっと遅れをとってしまった。
- 勉強好きに変身‼️
塾に通い、本格的に勉強し始めたのは13歳の頃。近所の子達がみんな書物を読んでいるので焦ったようだ。随分と遅くから始めた勉強であったが、他の子をぐんぐん追い抜いた。普通の子では途中で投げ出してしまうような15巻もある『左伝』という本を11回も読み返して、好きなところは暗記してしまったという逸話もある。
- 自分で試してみた
人々が当たり前と信じていることであっても、諭吉は疑問に感じると自分自身で確かめてみないと気が済まなかった。ある時、本当にバチは当たるのか疑問に思った。皆が拝んでいる稲荷神社の祠の中の石を別の石に取り替えてみたが何も起こらない。でも皆はいつものように拝んでいる。ちょっと度がすぎるような気もするがこの好奇心を持って物事を見ていた。そのため、迷信などにとらわれず正しいことを見極めることができた。この好奇心が大人になって西欧の文化や学問へと向けられていく。
『学問のすすめ』を知ってる❓
「天は人の上に人を作らず、人の下に人をつくらずといえり」という書き出しで始まる文章が有名である。この書き出しの部分を簡単に訳すと、
人間は誰でも平等でなければならない。地位や家柄やお金のある無しで差別されてはならない。もし仮に人間としての区別があるとしたらそれは学問をしたかしないかの違いであるから誰でも学問するように努力しよう。その学問とは実際の生活に役に立つ学問である。いろは47文字を習ったり、手紙の書き方、そろばんなど、簡単なことから始まりさらに地理、物理、歴史、経済など学ぶことはたくさんある。
この本は明治時代のベストセラーになった。『学問のすすめ』が発行された数は一遍あたりが約20万冊。その頃の日本の人口が約3300万人だから、約150人に1冊の割合である。これはすごいことである。のちに小学校の教科書としても使われた。
諭吉が本を書くのは、日本人の考え方をアップデートすることが目的であったため、できるだけわかりやすい文章で誰にでも読めるようにすることを心がけた。出来上がった文章はお手伝いさんに読んで聞かせて理解できるかどうか確かめてから出版したという。
諭吉は自由と平等、独立の精神をこの本で説いている。そのためには学問が必要だといっている。自由や平等は自分の好き勝手に振る舞うことではなく自分を高めるものであるともいっている。
諭吉の作った慶應義塾とは❓
- 慶應義塾の歩み
1858年、23歳の諭吉は江戸に蘭学塾を開いた。この塾が後の慶應義塾へと発展する。諭吉は、欧米で買い入れた本を基に英語を中心とした欧米の学問を教えるようになった。「西洋の学問を学ばなければならない。でも魂まで西洋人になってはいけない」といって生徒たちを励ました。
- 諭吉が伝えたかったこと
慶應義塾が今までの学校と違う点は、民主的な雰囲気を持っていたことである。先生だから、先輩だからといって威張るような人はいない。諭吉は塾の敷地内に三田演説館を立てた。ここでは塾生たちが、自由、平等、政治問題について討論や演説をした。誰でも自分の思ったことが発言でき生徒でもない人たちも演説を聞きにきた。自分の考えをしっかり持つ人間になることを諭吉は「独立自尊」という言葉を使って生徒に言い聞かせた。
福沢諭吉が残した名言
門閥制度は親の仇でござる
福沢諭吉
門閥とは、家の位や格式のこと。封建社会においては家の格によってその家の人の地位が決まり、仕事も決まってしまっていた。諭吉の父の福沢百助は、非常に真面目で学問の好きな人だったけれども、武士の中では身分が低いため重要な仕事は任せてもらえなかった。どんなに学問をしても報われなかった。45歳で亡くなった。父のことを思うと諭吉は腹が立って仕方がなかったのだろう。
天は人の上に人を作らず、人の下に人をつくらずといえり
福沢諭吉
江戸時代には「士農工商」という身分制度があり身分低いものは出世することができなかった。西洋文化をいち早く学んだ諭吉は、人間は誰しも平等でなければならないという、新しい考えを、はっきりと書いた。
ペンは剣よりも強し
福沢諭吉
上野戦争で凄まじい大砲が聞こえる中でも諭吉はいつも通りに経済学の講義をしていた。戦争は多くの人間が命を落として悲しい目に遭うだけだ。しかし、平和な文明国を目指して勉強したり、言論を伝えあうことで世の中を良くすることができるかもしれない。学問や言論は、刀を振りかざすよりもっと力を持っていると諭吉は確信していた。その精神を弟子たちは受け継いでいった。
行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である
福沢諭吉
何か決意して事をなそうとしてチャレンジしようとしている人を批判したり、足を引っ張ろうとするのは何もしていない人ではなかろうか❓
自分の考えだけで、他人を評価してはならない
福沢諭吉
人間関係において相手を理解し尊重する姿勢が重要であり、単なる主観的な見方だけではなく、客観的かつ寛容な態度が求められるという事である
賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり
福沢諭吉
学びと教育の重要性を強調し、自発的な学びの姿勢が個人の賢さを形成する一要素であると述べている。学び続けることが、知識、理解、そして賢明な判断を育む鍵である。
やってもみないで、「事の成否」を疑うな
福沢諭吉
行動する前に先入観や懸念を持たずに積極的に取り組む態度の重要性を強調している。
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし
福沢諭吉
人生の不確かさに対して謙虚であり、同時に軽い心と一途な行動が成功への鍵であることを伝えている。過去の状況や社会の評価にとらわれず、現在に全力で取り組むことが大切である。
信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し
福沢諭吉
信じることと疑うことの双方にリスクや可能性があることを指摘し、物事に対して冷静かつ客観的な態度を持つことの重要性を教えている。真実を見抜くためには、信頼と懐疑の両方を適切に使い分けることが必要。
未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない
福沢諭吉
新しいことに対してオープンで勇敢な態度を奨励している。挑戦を恐れず、失敗を乗り越えていくことが、真の勇者としての成熟を促すというメッセージが込められている。
人生、万事、小児の戯れ
福沢諭吉
人生の複雑さや困難にも対して軽い心で臨むことが重要である。遊び心や柔軟性を持ちながら、楽しみながら成長し、人生を豊かに生きることが大切である。
自由と我儘(わがまま)との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり
福沢諭吉
自由が他人に対する妨げとならない範囲であることが重要であり、他者との調和や配慮が自由の健全な発展に貢献する。
努力は、「天命」さえも変える
福沢諭吉
人生においては努力が非常に重要であり、その努力によって個人の運命や状況すら変えることができる。自らの努力を信じ、目標に向かって精進することで、将来において意味深い変化をもたらす可能性があると言える。
最後に
福沢諭吉の生涯と名言を振り返ると、彼は困難な状況から出発し、自らの学びと努力によって日本の近代化に貢献した。慶應義塾の創立や著作、思想は、彼が持っていた西洋と日本の融合の理念を具現化したものであり、その影響は多大なるものであった。
諭吉の名言には、自由や学問、努力の大切さが込められています。彼の言葉は時代を超えて今もなお多くの人々に勇気と啓示を与えている。彼の生き様や教えに触れることで、困難な状況にあっても前向きに挑戦し、学び続ける姿勢が重要であることを教えられる。
福沢諭吉は自らが経験した貧しい環境から抜け出し、社会に大きな足跡を残しました。彼のような先見の明や進取の精神は、今日の私たちにとっても学びの源泉となる。未来を切り拓くためには、自らの力で努力し、新しい価値観や知識を積極的に受け入れることが大切である。福沢諭吉の遺産を胸に、前進し、学び舎を築いていくことが、彼への最大の敬意となるだろう。今回の名言のたびいかがだったでしょうか❓ごきげんよう。さようなら。また次の名言の旅でお会いしよう。
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