アンネ・フランクってどんな人❓
私のことを簡単に紹介するわ!!
- ユダヤ人の女の子
- 『アンネの日記』を書いた
- 1929年6月12日、ドイツのフランクフルトに生まれた
- 黒くてツヤツヤした髪が自慢
- 数学が苦手で、文章を書くことが大好き
- 目は緑がかった灰色で、大きく生き生きしている
- 笑うとエクボができる
- 声はかん高く、少し早口でしゃべる
- アイスクリームが大好き。野菜の好き嫌いがある
- モノマネが上手。みんなを笑わせるのが得意
ユダヤ人であるという理由だけで、隠れ家で暮らし、15歳の時にユダヤ人強制収容所で亡くなった
早見表 アンネ・フランク早わかり
私の人生を簡単にふりかってみよう!!
1929年 6月12日 ドイツのフランクフルトで生まれる
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1934年 4歳 オランダのアムステルダムに移り住む
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1935年 6歳 モンテッソーリ小学校に入学(ユダヤ人に対する迫害が徐々に激しくなる)
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1941年 12歳 ユダヤ人だけの高等中学校に通う
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1942年 13歳 誕生日に日記帳をもらう。7月6日、隠れ家に移る
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1944年 15歳 8月4日、隠れ家の全員が捕まり、強制収容所へ
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1945年 15歳 3月ごろ アンネ、病気のためにベルゲン・ベルゼン収容所で亡くなる
ユダヤ人であったアンネ
ユダヤ人とはなぜ迫害されるようになってしまったのかなぁ❓
- そもそもユダヤ人とは❓
大昔、現在のイスラエルやヨルダン周辺にはいくつかの国が存在していた。その一つがイスラエル王国であった。そこには、ダビデという王様🤴がいてエルサレムに都を作った。ところがそこに強大な力を持ったローマ帝国が攻めてきて、国は分裂。人々は故郷から無理やり追い出される形となった。その後、人々は再びエルサレムに戻りユダヤ教という宗教ができた。けれども、その宗教も禁止され、ユダヤ人は散り散りにさせられてしまった。そしてユダヤ人の多くがヨーロッパで暮らすようになった。1948年、ユダヤ人の国であるイスラエル国が独立。しかし、その土地をふるさとと考えるアラブ人と争うようになってしまう。自分たちの国土を持つことができず、世界中に散らばったユダヤ人。第2次世界大戦の後、独立したものの、周囲の民族との争いで国境はなかなか定まらない。
- ドイツはとてつもなく貧しかった
アンネが生まれる10年程前、ドイツは第1次世界大戦で負けてしまい、賠償金を払わなければならなかった。そのため、国内では食べ物をはじめ、物の値段が何百倍にも跳ね上がっていた。ドイツは景気が悪く、失職した人、貧しい人もたくさんおり、皆が不満を持っていた。
- ヒトラーが現る!!
一方、ユダヤ人の中にはお金持ちもいて、それをよく思わないドイツ人が出てきた。そんな時に現れたのがアドルフ・ヒトラーである。彼は、「ドイツ人は優秀で、ユダヤ人は劣っている」「ユダヤ人の財産を取り上げて収容所で働かせよう」と言い始めた。こうしてドイツ人の多くは次第にヒトラーに賛成するようになっていってしまった。そして恐ろしい迫害が徐々に始まっていったんだ。
アンネの日記とは❓
私にとって日記とはどういうものだったのか‥
- 日記を書き始めたきっかけ
父が日記をプレゼントしてくれたのは、アンネの13歳の誕生日であった。アンネは、毎日起きることや心に思っていることをかき続けた。隠れ家に移ったアンネは捕まるまでの約2年間、ユダヤ人の迫害の事、不安な生活や将来のこと、好きな人のことなどを書いている。アンネの日記には、彼女の夢や秘密もたくさん詰まっている。
- 世界中で読まれ続けている『アンネの日記』
60年以上経った今、アンネの日記は55以上の言葉に訳され、2000万部以上、本が出版されている。世界中の人々がこの日記を読んでいる。これだけ読まれている本は世界中探しても『聖書』の他には見当たらない。
ホロコースト(大虐殺)という忌まわしきもの
ホロコーストとは大虐殺という意味の言葉だよ。ユダヤ人というだけで殺された人々が多くいた
- 死の収容所
ドイツの首相、ヒトラーと彼が率いる政党のナチスは、ユダヤ人を閉じ込めるため、ポーランドの国に6つの収容所を作った。その中で一番大きな施設がアウシュビッツ強制収容所であった。アンネはここに送られた最後のユダヤ人であった。
- 全てを取り上げられて‥
ヨーロッパで暮らしていたユダヤ人は、捕まると、次々に列車に乗せられて収容所へ送り込まれた。列車といっても普段は牛や豚を運んでいたものだ。人々は狭い車両にぎゅうぎゅうに詰め込まれ、何日間も立ちっぱなしであった。トイレにも行けず、食べ物も水も与えられなかった。
- 出れるのは、死んだ時だけ
収容所に到着すると、男女別に分けられ、さらに小さな子供は母親と引き離されてしまった。そして、老人や赤ちゃん、15歳未満の子供たちは、働くことができないという理由で、ガス室に入れられ殺されてしまった。このように、ナチスの収容所では恐ろしい大量虐殺が行われていた。中学生ぐらいの子供たちや大人たちは穴掘りなど辛い仕事をやらされた。1日中働いても、まともな食べ物は出なかった。おまけに冬はストーブもなく凍えるほど寒い。この劣悪な環境で何百万人もの人々が死んでいった。
- 奇跡的にも生き残った子供たち
ユダヤ人の子供たちの中には、外国の人に預けられたり、ナチスの目が届かない田舎の家にかくまってもらったりした子供もいた。子供だとユダヤ人ということが分かりにくく、誤魔化すことができた。しかしこの子供達のほとんどが両親に再び会うことはできなかった。親は自分自身の命よりも子供達の命を守ることを第一優先で考えていた。
アンネが遺した名言
「人と話したい、自由になりたい、お友達が欲しい、一人になりたい。そして何よりも‥思い切り泣きたい!たくさんの願望に胸がはち切れそうな気がしますし、泣けば随分さっぱりするでしょう。でもそれができません。」
アンネ・フランク
「まだ人生を愛していますし、自然の声を忘れてもいませんから。私たちは、今なお、希望を何事につけても希望を、忘れてはいないのです」
アンネ・フランク
「なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりでも、人間の本性は、やっぱり善なのだということ」
アンネ・フランク
「わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!」
アンネ・フランク
「なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです」
アンネ・フランク
「最終的に人格をつくるのは、自分自身である」
アンネ・フランク
「与えることで貧しくなった人はいまだかつて一人もいません」
アンネ・フランク
「薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず」
アンネ・フランク
「私達は皆、幸せになることを目的に生きています。私たちの人生は一人ひとり違うけれど、されど皆同じなのです」
アンネ・フランク
最後に
アンネ・フランクの勇気と希望は、私たちに今もなお力と啓示を与えている。彼女の日記を通して、戦争や差別の恐ろしさと同時に、人間の強さと尊厳も伝わってくる。アンネは若くしてこの世を去りましたが、彼女の言葉と精神は永遠に生き続ける。彼女の物語を通して、私たちは人間性の尊さを再認識し、平和と寛容の大切さを思い起こさせられる。彼女の遺産を称えながら、私たちは未来に向かって前進し、彼女の夢と願いを叶えるために努力を続けることが、私たちの責任であると感じる。今回はこの辺で。ごきげんよう。さようなら。
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