坂本龍馬🗡️ってどんな人❓
わしはこんな人だったぜよ!!!
- 1835年(天保6年)11月15日生まれ
- 出身は土佐(今の高知県)
- 身長173センチ
- 体重は80キロぐらい
- 剣の達人
- おしゃれ
- 新しい物好き
- 人の意見をよく聞く
- 誰にでも好かれる魅力の持ち主
江戸時代の終わりに、新しい日本を作るために尽力し大活躍した
早見表 坂本龍馬🗡️
わしの人生を簡単にまとめてみたぜよ!!
- 1835年(天保6年)11月15日、土佐(現在の高知県)で生まれる。
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- 12歳 母が亡くなる
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- 14歳 近くの道場に通い始める
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- 19歳 剣術の腕を磨くため江戸(現在の東京)に出て、道場に入門。この時に日本に来た黒船を目の当たりにする
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- 20歳 土佐に戻る。この頃から世界や国内の情勢に興味を持ち始める。
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- 21歳 父が亡くなる。翌年にもう一度江戸に剣術修行に出て、2年後に土佐に戻る。
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- 28歳 土佐藩を脱藩する。江戸に戻り、勝海舟の弟子になり、航海術を学ぶ。
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- 31歳 長崎で、日本初の会社(カンパニー)「亀山社中」を設立する。海運と貿易の仕事をし、後に海援隊になる。
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- 32歳〜33歳 結果的に約260年ほど続いた窮屈な江戸時代の世の中を変革するために多くの活躍をした。薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせた(薩長同盟)。新しい政府の構想を示し、幕府が政権を朝廷に返還(大政奉還)これらの活動に尽力した。
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- 1,867年(慶応3年)11月15日、京都の近江屋で暗殺される。
坂本龍馬🗡️の幼少期はどんなだった❓
わしの幼少期はどんなだったか気になるぜよ!!!
- 甘えん坊
竜馬は裕福な家庭に生まれた。兄が一人と三人の姉がいて、末っ子であったため皆に可愛がられて育った。
- よばりたれ
「よばりたれ」というのは、土佐の方言で寝小便たれのこと。おねしょの癖がなかなか治らなかった。竜馬は幼少期「よばりたれ」というあだ名をつけられたりした。意外である。
- 泣き虫
竜馬は他の子より、体は大きいのにも関わらず泣き虫でいつもいじめられていた。読み書きの勉強する塾に通ったが勉強はまるでダメだった。先生に注意されるとまた泣き出した。塾は数ヶ月で辞めてしまった。しかし、大人になってからは、大砲の勉強、航海術、蘭学という西洋の学問などを進んで勉強するようになる。
- 乙女姉さんの剣術稽古
いつも泣かされてうちに帰ってくる竜馬に厳しく剣術を教えたのが三つ年上の乙女姉さん。竜馬はへこたれずに、何度も何度も姉さんに挑んでいった。おかげで竜馬はずいぶん強い子に変わっていった。剣術の道場に通い、江戸に修行にも出た。そうして立派な剣士になった。
当時の世界情勢🌍と日本🇯🇵
この頃の世界と日本は今とは全く違ったぜよ!!!!
- 当時の世界情勢
ヨーロッパの国々やアメリカでは産業革命の影響で蒸気船や鉄道が発明され、技術革新が目覚ましかった。ヨーロッパの国々は大きな船や強力な武器を所持していたため、インドなどアジアの国々を攻め、植民地にしていった。自国よりも弱い国を植民地化し自国の都合の良いように治めて多くの利益を得ていた。日本のすぐ隣の清国(現在の中国)もイギリスと戦争をし、香港をとられてしまった。
- 当時の日本社会
江戸時代は、外国とはお付き合いをしないという「鎖国」を200年以上も続けていた。貿易相手国はオランダと中国に限られていた。そのため日本は技術が遅れていた。
- 4隻の黒船が現れた
ついに日本にも外国の軍艦がやってきた。1853年、今の神奈川県の浦賀に、アメリカ人のペリーが黒い大きな軍艦4隻を引き連れてきた。そのうち2隻は蒸気船で、大砲もたくさん積んでいた。人々は見たこともない大きな船に驚き恐れ慄いた。
大きく情勢が揺れる日本🇯🇵と竜馬🗡️
当時日本の情勢は大変不安定だったぜよ!!!
- 開国へ
港を開かせて貿易を行いたいというアメリカ🇺🇸の強い要求に負けて幕府は不平等条約を結ぶ。その後、イギリス🇬🇧、ロシア🇷🇺、フランス🇫🇷などとも次々と条約を結んでいった。これで日本は鎖国をやめ開国することになった。
- 幕府に対する不満の声
幕府と海外の国が結んだ条約は不平等条約であったために、外国と戦って追い払おうという考え(攘夷論)を持つものもいた。その中には、幕府の政治を不満に思い、国を治める権利を幕府から天皇に戻そうという考え(尊皇論)の人もいた。この二つの考えが結びついて「尊皇攘夷論」が盛んになっていった。これに対して幕府の味方をする人たちを「佐幕派」といった。こうして、尊皇攘夷派と佐幕派の争いが激化していくのであった。
- 竜馬のとった行動とは❓
江戸で黒船を目にした竜馬は、日本の内部で争っていても、外国には勝てないし、これでは外国の思う壺であると考えた。小さい土佐藩の中でも上士と下士で争っている。竜馬はもっと大きな考えを持って土佐藩を脱藩した。脱藩は当時、罪であったが藩に囚われず行動して、新しい日本を作りたかった。
竜馬🗡️が精力的に取り組んだこと!
脱藩した私は新しい日本を作るために日本中を駆けずり回ったぜよ!!!
- 航海術を身につけた
江戸に出た竜馬は勝海舟に弟子にしてもらった。勝海舟は幕府の仕事でアメリカに行き、発展した文化を見てきた人である。竜馬は勝海舟に航海術を教わった。蒸気船に乗せてもらい、日本各地を周り、多くの人と出会った。身分の上下関係なく、自由に海外と取引できる世の中を目指して活動した。
- 日本で初めての会社を設立する
勝海舟の下には、藩を抜けた多くの若者が集まっていた。竜馬はその仲間たちと一緒に「亀山社中」を設立した。事業内容としては船で運送業をしてお金を儲け、その利益を皆で等しく分け合うという日本で初めての会社である。余談であるが、社長の竜馬と社員の給料は同額であったという。藩という小さな枠組みにとらわれることなく、日本中を駆け回る「亀山社中」はまさに竜馬の夢を実現する大きな第一歩であった。
- 薩摩と長州を結びつける
外国に対抗するには、実力のある薩摩藩と長州藩を結びつけ、日本を一つにまとめ上げることだと竜馬は考えた。しかしこの二つの藩は非常に仲が悪い。仲をとり持つための竜馬の案はこうである。
こうして竜馬は、薩摩と長州が仲直りさせるきっかけを作った。そして、中岡慎太郎と協力して、薩摩西郷隆盛と、長州の桂小五郎を会わせる努力をし、薩長同盟を成功させた。
- 日本を駆け回った竜馬
土佐藩を脱藩してから、5年間龍馬が移動した距離はおよそ地球半周分という。もちろん歩くだけではなく船にもたくさん乗っているが、それにしても驚くべき行動力である。その行動力に加え、人に好かれる人物であった竜馬は色々な人を味方につけ、人と人を繋げるパイプの役割をすることができた。
新しい国を作るために‥
私が新しい国づくりのために提案したことを教えるぜよ!!!
- 新政府のアイデア
脱藩した罪を許されて、土佐藩の海援隊の隊長になっていた竜馬は、土佐藩の船「夕顔丸」の中で、新しい国づくりについての8つの案を出した。それが「船中八策」である。竜馬の案はほとんどそのまま取り入れられて新しい政府づくりの基礎となった。
- 戦いを避けるための提案
船中八策の一番目の幕府は国を統治する権利を天皇に返還するというもの。これを土佐藩が幕府に提案し、徳川幕府最後の将軍慶喜はそれに従った。このことを大政奉還という。薩摩と長州は力で幕府を倒そうと思っていた。竜馬は争いでたくさんの血が流れることを望まなかった。260年続いた徳川幕府を終わらせる決心をした慶喜の気持ちを思いやった。大政奉還が決まった知らせを受け取った時、竜馬は「よく決心された。あなたのためなら命を捨てても惜しくない」こう言って涙を流したという。
- 世界の海援隊
竜馬は、新しい政府の重要な役職に誰を置くかという案を作った。しかしそこには竜馬の名前はなかった。西郷隆盛が「坂本さんの名前がないが❓」と聞くと竜馬は「役人は性に合わない」といった。では何をするのかと尋ねられ、「世界の海援隊でもやろう」と答えた。薩長同盟、大政奉還の際も竜馬は大変活躍したにもかかわらず表には出ず、縁の下の力持ちでいた。自分の名誉や名声にはこだわらなかった。竜馬は日本を大きく変える働きをしたが、さらにもっと広い世界へと飛び立って行きたかったのかもしれない。
竜馬が残した名言⭐️
私が残した言葉たちを紹介するぜよ!!!
時勢に応じて自分を変革しろ。
坂本竜馬
状況や時代の変化に対応し、柔軟で適応力のある姿勢が重要であると教えている。彼は旧来の体制や概念にとらわれず、時代の流れに乗り、自ら変革を果たそうとした。この考え方は、現代においても重要で、変化の激しい社会において柔軟性や適応力を持つことが成功への鍵となる。革新的な発想や進取の気風を奨励し、変化を恐れずに前向きに取り組む姿勢を称賛している。
偏見を持つな。
坂本竜馬
相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。
彼の寛容さと他者への開かれた態度を示している。この名言は、人々が社会的な地位や出自にとらわれず、相手の人間性や学ぶべき教訓を重視すべきだと説いている。
坂本竜馬は、維新の時代において異なる階層や身分の人々と協力し、共に国家の未来を築こうとした。この名言は、彼の社会的な枠を超えた人間関係の築き方や、互いに学び合う姿勢を表現している。人間性や才能は身分や地位に依存せず、どんな立場にあっても価値があるという考え方が込められている。
現代においても、この名言は多様性と共感の大切さを教えてくれる。他者を尊重し、互いに学び合う姿勢は、対話や協力を通じてより良い社会を築くために重要である。
恥といふことを打ち捨てて世のことは成るべし。
坂本竜馬
彼の大胆で果敢な行動を示している。この言葉には、恐れや遠慮を捨て、自らの信念や目標のために果断に行動する勇気を促すメッセージが込められている。「恥を捨てる」とは、他者の評価や社会的な規範に縛られず、自らの信念に忠実であることを指している。坂本竜馬は、時代の変革を志し、そのためには恐れずに困難に立ち向かい、自らの行動で歴史を切り開こうとした。この名言は、リーダーシップや変革のプロセスにおいて、時には慣習や固定観念を打破し、新しい価値観や制度を築くためには大胆であることが必要であることを示唆している。社会にとって新しい方向性を提案する際には、時には一歩踏み込んで恥を捨て、自らの信念に基づいて行動することが求められると言える。
人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。
坂本竜馬
大きな夢や目標を追い求めることの重要性を強調している。この言葉は、限定的な視野や小さな目標ではなく、広大な可能性と大いなる夢を抱くべきだと教えている。
「太平洋のように」という比喩は、太平洋が広大な海であることから、夢や目標も同様に広範で大胆であるべきだという意味合いが込められている。坂本竜馬は、自らが生きる時代の変革という巨大な課題に挑戦し、大きな夢を追い求めた。彼は限定された枠組みにとどまらず、未知の領域に飛び込むことで、新たな可能性を切り拓こうとした。
この名言は、個人や社会において、限界を乗り越え、大胆で革新的なアプローチを取ることで、素晴らしい成果や変革をもたらすことができるという信念を表している。大きな夢を持つことは、成長や進化の原動力となり、自らの可能性を広げる一環と言えるだろう。
人間、好きな道によって世界を切り拓いていく。
坂本竜馬
個人が自らの好みや志向に忠実であり、自分自身を理解し、挑戦し、変革することで、世界を切り拓く力を持つという信念を表している。
何でも思い切ってやってみることですよ。
坂本竜馬
どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。
生涯にわたって挑戦し、冒険し、失敗や成功を通じて成長することが、充実した人生を築く鍵であるというメッセージを伝えている。
人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ。
坂本竜馬
自分らしい生き方を大切にし、自分の好みや得意な分野を大切に追求することが、充実した人生の基盤であり、社会の発展にも寄与するという思想を表している。
金よりも大事なものに評判というものがある。
坂本竜馬
世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。
金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。
金銭の重要性を否定するのではなく、評判や信頼を築くことが大きな成功に繋がると強調している。金銭は評判や信頼を裏付け、支える手段とされている。
人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
坂本竜馬
失敗を否定せず、むしろそれを成長や学びの機会として捉え、前向きな姿勢と楽観主義を示唆している。人生の中での挫折やミスは避けられないものであり、それらを受け入れつつ、前に進むことが大切だと伝えている。
わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。
坂本竜馬
そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。
単なる優越感や知識だけではなく、それを現実の行動に結びつけ、変化する状況に対応する柔軟性が求められることを教えている。
人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
坂本竜馬
異なる人々が異なる生き方や価値観を持つことを認識し、多様性を尊重する姿勢を示している。
最後に
坂本龍馬の短い生涯であったが、その活動は日本の歴史に大きな足跡を残した。彼の行動力と新しいアイデアによって、時代の流れを変え、新しい日本を築く一助となった。竜馬は名誉や地位にこだわることなく、人々とのつながりや国の未来に尽力した。船中八策や海援隊など、彼の提案は新しい政府の基盤となり、その影響は今もなお続いている。竜馬のような先見の明のあるリーダーがいたからこそ、日本は明治時代に向かって歩み出ることができたのであろう。今回の名言の旅はいかがであったであろうか。ごきげんよう。さようなら。
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