手塚治虫ってどんな人❓
私のことを簡単に紹介してみよう!!!
- 1928年11月3日、大阪府豊中市に生まれる
- 漫画家
- 医学博士でもある
- 漫画の仕事をするようになってからは、ずっとベレー帽をかぶっていた
- 生涯に約700の漫画と約60のアニメーションを作った
『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブラックジャック』『火の鳥』『アドルフに告ぐ』などをはじめとする、数多くの作品で知られる
早見表 手塚治虫 人生丸わかり
私の一生を短くまとめてみたよ!!!
1928年11月3日 0歳 大阪の会社員の息子として生まれ、治と名付けられる。比較的裕福な家庭であった
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1936年 8歳 ディズニーのミッキーマウスなどのマンガ映画を鑑賞し感銘を受ける
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1938年 10歳 小学校の教室でノートに書いた漫画をみんなに回してみてもらう
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1939年 10歳 オサムシという昆虫を知り、「治虫」というペンネームを自分でつける
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1945年 16歳 大阪大学附属医学部専門部に入学。6月に空襲に遭う。
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1946年 17歳 「アマチャンの日記帳」を新聞に連載し始める
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1947年 18歳 長編漫画 『新宝島』を出版
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1951年 22歳 雑誌『少年』に「アトム大使」の連載を開始。のちに「鉄腕アトム」に変更。大阪大学医学部を卒業。
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1959年 30歳 岡田悦子と結婚
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1961年 32歳 医学博士の学位をとる。東京で、手塚プロダクション(虫プロ)を作り、アニメーシ ョン制作を始める
↓この間に多数のマンガ、アニメーションを制作
1984年 55歳 『手塚治虫漫画全集』全300巻の刊行が終わる
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1989年 60歳 2月9日胃がんのために亡くなる
なぜ「マンガの神様」と呼ばれたのか❓
なぜ私は、マンガの神様と呼ばれたのか❓
- 同時に違う漫画を描くことができた‼️?
締め切りが近くなると、複数の作品をほぼ同時に仕上げることもあったという。白紙の原稿を横に並べ、雑誌ごとにそれぞれ違う話を順番に1ページずつ書いていく。しかも内容はバラバラ。クライマックスシーンであったり、最初のシーンだったりしたという。
- 執筆中に他の漫画の指示!?
たくさんの仕事を受けていた治虫はなんとか急いで作品を仕上げなければならない。治虫は後ろに待機しているアシスタントに、コマ割りやセリフが入る位置を、次々と指示し始めた。けれども彼自身は振り返りはしない。なぜなら、治虫自身は、その時は他の雑誌の別の漫画を書いていたからであった。
- メモ無しでもみた光景をそのまま再現!?
野球の試合のシーンを書くことになった時、オサムは後楽園球場に向かった。その際、スケッチブックもカメラも持っていなかった。その後作品が完成すると見事に漫画に再現されていた。他の資料をみたわけでもなく記憶だけを頼りに見たままを書いていた。
- 定規なしで直線を描く!?
治虫は、鉛筆などで下書きをすることがほとんどなかった。太くて使いにくそうに見えるペンでいきなり書き上げていたという。器用で頑丈な手は定規なしでも漫画の枠の直線が書けたり、揺れるタクシーの中でも仕事をしていたという。
手塚治虫が日本のマンガ📕を変えた‼️
今までのマンガとは違った手法を多く取り入れたんだ!!
①クローズアップ(大写し)とロングショット(遠景)
登場人物にクローズアップを利用することで心情の変化、場面の緊張感、臨場感を読者に伝わりやすくした。また、風景全体が入るようなロングショットを用いて場面に強弱をつけた。既存の漫画は人物の大きさやコマもほとんど同じであまり変化が見られなかった。見せたいものに接近したり、離れたりすることで迫力を出した。
②細かいコマ割り
これまでのマンガは、コマの大きさも大抵の場面において同じであった。治虫は大小の変化を大胆につけた。またコマに大変こだわって、登場人物や場面の動きにスピード感を与えた。
③4コママンガから壮大なドラマまで
治虫は4コママンガからスタートしたが、マンガにはもっと多くの可能性があると信じていた。その為映画の表現技法も取り入れ、新しいマンガを制作していった。マンガの内容もテーマも、ドラマチックなものから昔話や社会問題など今まで誰も取り組まなかったものにもどんどん挑戦していった。この功績によってマンガという一種の娯楽として捉えられていたものが「芸術作品」として認められていった。
手塚治虫が遺した言葉🗣️
私の言葉が皆さんの人生に少しでも役に立てばと思います!!
ただ一つでも人に自慢できるものを持っていることが本当に幸せなのです。なんでもいいから、一つのことを高校生2年生ぐらいまで続けていると、それは必ず何らかの形で、皆さんの宝物になるのです。
手塚治虫
僕が3歳か4歳の頃にはもうマンガを書いた。ということはつまり、その時すでに僕の周囲に漫画の本がいっぱいあったということだ。僕がこうして漫画に親しむようになったのは、親父のおかげだ。
手塚治虫
8月15日に戦争が終わった途端、大阪の街に電灯がつきました。戦争中は、空襲に遭わないように街は真っ暗でした。街の家いえに明かりが灯っているのを見たとき、ああ戦争が終わった、と思って、ポロポロ泣けてきました。僕はこの感動を、誰かに伝えたいと思いました。マンガに描いてやれ、と思いました。
手塚治虫
私は、肩書きが大嫌いです。偉い人になればなるほど肩書をいっぱい見せつけます。しかし、本当に人間の偉いとか偉くないなんていうのは、本人が持っている心の広さとか腕とか、そういうことで決まるのであって、それは肩書きには、入らないのです。
手塚治虫
人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。
手塚治虫
人間は何万年も、あした生きるために今日を生きてきた。
手塚治虫
好奇心というのは道草でもあるわけです。
手塚治虫
確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。
最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。
手塚治虫
医者は生活の安定を約束していた。
手塚治虫
しかし、僕は画が描きたかったのだ。
終始一貫して僕が自分の漫画の中で描こうとしてきたのは、次の大きな主張です。
手塚治虫
「命を大事にしよう!」
「ダメな子」とか、「わるい子」なんて子どもは、ひとりだっていないのです。
手塚治虫
もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神が貧しいのだ。
子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。
手塚治虫
世界中の子どもが正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。
僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。
手塚治虫
最後に
手塚治虫は、マンガの表現技法に革新をもたらし、クローズアップやロングショットなどの手法を積極的に取り入れ、細かいコマ割りや4コママンガから壮大なドラマまで幅広いジャンルに挑戦しました。
彼の言葉には、人生の哲学や創作への情熱が込められている。特に、「命を大事にしよう!」や「好奇心というのは道草でもあるわけです」といった言葉は、彼の思想を象徴している。
最後まで努力をし、自らの信念を貫くことが生き甲斐であり、人間としての真の豊かさを追求することを示唆している。
手塚治虫は、日本のマンガ文化に大きな足跡を残し、彼の作品と言葉は今なお多くの人々に影響を与え続けている。では今回はここまで。ごきげんよう。さようなら。
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