自然の奥深さに触れ、ファーブルの名言で学ぶ:創造の旅への扉

は〜ほ

ファーブルってどんな人❓

ファーブル
ファーブル

私のことを簡単に紹介しよう!!!

  • 本名 ジャン・アンリ・ファーブル
  • 1823年12月21日生まれ
  • 黒のフェルト帽
  • フランスのサン・レオンで生まれる
  • 粗末な背広を着ていた
  • ステッキを持っている
  • 詩人でもあった
  • 虫眼鏡で観察
  • 虫を観察したり、実験したりするのが大好き
                                               一生を賭けて「昆虫記」を書いた‼️

早見表 ファーブル

ファーブル
ファーブル

私は、当時にしては大変長生きした。私の人生を簡単に振り返ってみよう。

1823年12月21日 南フランスのサン・レオンで生まれる

3歳 マラヴィアルのおじさん、おばさんの家に預けられる

6歳 サン・レオンに戻り、小学校に入学する

15歳 アヴィニョンの師範学校に、一番の成績で入学する

18歳 カルパントラの小学校の先生になる

25歳 コルシカ島で中学校の理科の先生になる

27歳 博物学者を目指すこと決める

29歳 アヴィニョンの高校の物理の先生になる。この頃から、昆虫に関する論文を発表する

44歳 高校の先生を辞める

55歳 セリニャンに引っ越し、自分の土地に「アルマス(荒地)と名付ける。『昆虫記』第1巻が出版      される。この後、ほぼ三年ごとに1巻ずつ出版

83歳 『昆虫記』第10巻を出版

1915年10月11日 病気のため、91歳で亡くなる

少年時代のファーブルはどんなだった❓

ファーブル
ファーブル

私の暮らしは今のみんなとは随分違う暮らしだと思うよ。

  • おじさんとおばさんがいる村で‥

金銭的に貧しかったため、3歳の頃にマラヴァルという村にある、おじいさんの家に預けられる。ここは、大きな土地を持つ農家で、食事は、親戚の友達や使用人たちと一緒に食べるのでとっても賑やかだった。夕食後におばさんが聞かせてくれる昔話が好きだった。

  • サン・レオンの村で‥

6歳の頃に故郷のサン・レオンに戻ったファーブル。父と母は小さな土地を耕していた。ファーブルも両親の手伝いをした。一部屋しかに家だったが、周りには自然がたくさんあり、生き物と自然に囲まれて育った。

  • 引っ越しが多かった

ファーブルが9歳の時、父はカフェを開こうと決心し、一家で街に引っ越した。しかし父の商売はうまくいかず、店が失敗するたびに引っ越して計4回も引っ越すことになる。とうとう父と母と弟は村に戻ることになる。ファーブルは14歳で一人で生きていくことになった。

  • 14歳で一人暮らし

14歳といえば今でいう中学2年生くらい。ファーブルは家族と離れレモン売りや鉄道の工事をして、お金を稼いだ。毎日その日暮らしという状態であった。寝る場所も決まっていなかった。そんな大変暮らしの中でも勉強は辞めなかった。本が好きなファーブルはご飯を抜いて本を買うこともあったという。

研究🔬に専念できるようになるまで

ファーブル
ファーブル

虫の研究に専念したかったけど、この時代はそう簡単に自分の好きなことをできる時代では無かったんだ。

  • 先生だったファーブル

ファーブルが選んだ仕事は学校の先生であった。これで、研究や勉強しながらお金もいただくことができると考えた。それに子供達に科学の楽しさを教えることができる。ファーブルは教授までなった。でもこの仕事が一番やりたいことでは無かった。

  • お金に苦労した

色々な研究を発表をしたり、科学の本を出版したりした。しかしあまり儲からなかった。家族も多く安い給料では豊かになれなかった。お金儲けのために始めたアカネから染料を簡単にとる研究も他の国で化学合成の方法が成功してしまって、役に立たなくなってしまった。

  • 虫の研究をするだけの生活に‥

44歳の時に先生を辞める。お金を稼ぐために以前よりもっと本を書き出版した。物理や数学、植物のことをわかりやすくまとめた本を出版した。『昆虫記』を出版する頃には少し貯金できていた。そのお金と出版社から前借りしたお金で、セリニャンの土地を買った。そこには広い庭に緑が茂り虫たちもたくさんいた。この土地でようやく思う存分虫の研究に取り組めるようになった。

ファーブル🐜の特筆🖌️すべき部分

ファーブル
ファーブル

私には譲れないものがあったんだ!

  • 自分の目で確かめないと気が済まない

人から聞いた話や世の中で常識とされていることも、自分自身で確かめないと気が済まなかった。不思議や疑問に思う気持ちが実験して真実を突き詰めようとする原動力になった。

  • 名誉やお金にこだわらない

ファーブルは常に虫や植物の研究をしたいと思っていた。お金を儲けるために、アカネの研究に取り組んだが、それはお金持ちになりたかったからでもなく、贅沢したいわけでもなかった。ただただ、虫を研究するお金が欲しかった。フランスで最も名誉のある勲章をもらっても本当はどうでも良かった。他人に褒められるために研究をしているわけではない。名誉やお金など関係なくただ自分が好きなことをしたかった。それがファーブルであった。

  • 好きなことを諦めない

ファーブルが研究を続けたいと思っていた時には、様々な障壁があった。お金がなくなったり、他人に理解されなかったり、父が商売に失敗したり、たくさんの困難があった。しかし、それにもめげずファーブルは一生大好きな研究や実験をし続けた。私たちもファーブルのように一生をかけて夢中になれるようなものを見つけてみたいものだ。

ファーブルの遺した名言

多くを学ぶより創造するほうが優る。創造は人生の根底なり

ファーブル

単なる知識の蓄積だけでなく、新しいアイディアや創造的な取り組みを通じて人生を豊かにする重要性を強調している。

人生の辛い試練は、どこかで説明がつくはずだ

ファーブル

人生の困難や試練に対して、理解が得られるという希望と信念を示唆している。

現実は常に公式からはみ出す

ファーブル

予測不可能性や複雑性に対処するためには、柔軟性や創造性を大切にし、単純な公式だけにこだわらない考え方が必要であるというメッセージが見受けられる。

見ることは知ること

ファーブル

理論的な知識だけでなく、経験や直感的な理解も大切にし、全体としてバランスを取ることが知識の豊かさにつながるという意味を持っている。

あるものの幸福は、他のものの不幸を踏み台にしている

ファーブル

相対性や依存関係の複雑さに焦点を当て、善悪や幸福と不幸の対比に対する深い考察を促している。

人間は自分で探し求め、発見したことしか長く覚えることはできない。

ファーブル

教育や学習環境において、学習者が自己発見的なプロセスを経て学びを深める重要性を強調している。

私は自分の無知を、そう酷く恥ずかしがらず、分からない事については、全然私には分からないと白状しよう。

ファーブル

このような態度は、持続的な学びと成長を促進し、他者とのコミュニケーションや協力においても有益であることを示唆している。

最後に

ファーブルは、19世紀から20世紀初頭のフランスの博物学者で、特に昆虫学において知られている。彼は自然環境での観察と実験を通じて、多くの昆虫に関する研究を行い、その成果を『昆虫記』としてまとめた。ファーブルは科学者としての業績だけでなく、その生涯や精神においても注目を集めた。

上記の文章は、彼の生い立ちから研究者としてのキャリア、そして彼の人生観や価値観に関する情報を含んでいます。彼は自己発見的な学び、創造性、困難に立ち向かう精神などに重点を置いており、これらの要素が彼の業績や名言に影響を与えています。今回の名言の旅はいかがだっただろうか❓ではごきげんよう。さようなら。

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