私は、自分が無知であることを知っていることで、より賢明であるらしい(無知の知)
プラトン 『ソクラテスの弁明』より
解釈としては、自分自身は、自分が無知なことを理解している。だからこそ、自分のことが無知だと知らない人たちよりも、賢明だということであろう。
皆さんは自分は大体の知識には通じている、もしくは自分はどんなことについて知らないのか、ということについては考えたことはあるだろうか❓
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、ある時神のお告げを聞いた。ソクラテスの友人が神殿の巫女に「ソクラテス以上の賢者はいるのか」と尋ねると、「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」と答えた。
ソクラテスは、自分は賢明ではない、といつも思っていたから、神のお告げでソクラテスが一番賢いと言われても、どうしてその答えが返ってきたのかとその後色々考えたのだ。
そこでソクラテスは、アテネで賢者と呼ばれる3人(政治家、詩人、職人)のもとを訪ね、話をした。しかし彼らは自分自身の専門のことでさえ理解してないこともあるのにも関わらず、自分は賢者であるのだと思い込んでいた。そんなことにソクラテスは気づいたのだ。
彼らは知らないのに知っていると思い込んでいる。そこで自分が無知であることを知っていることがより賢明であることの意味が真に理解できた。
これがソクラテスの「無知の知」である。
自分自身がなんでも知っていると思い込むことが、本当の無知であり、自分は知らないと謙虚に思うことが、実は知っているということでありそれが「無知の知」ということなのだ。
知恵や真理に対する謙虚さを大切にするということであろう。
その後ソクラテスはあなたたちは実は何も知らないといったためにこの3人に恨まれて、裁判にかけられることになってしまう。その次のやりとりが次の名言だ。
しかしもう去るべき時が来た。私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれかがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がない。
プラトン 『ソクラテスの弁明』より
先ほどの通り、ソクラテスはアテネで賢者と呼ばれている有力者に向かって「あなたたちは実は何も知らない」と言ったりしたり、ソクラテスは徳が大事であると考えていて、そうは思わないアテナ市民を批判するような言動を繰り返していた。そのためソクラテスをよく思わない人も多かったらしい。
そして「ソクラテスは自分たちの神を信じず、新しい神を導入して若者を堕落させる」という理由で、訴えられ裁判にかけられた。
ソクラテスは裁判の席でこう語りかけた。
「私の大好きなアテナイ人よ。もっとも偉大にして知恵と威力と名誉高き市の市民でありながら、蓄財や、名聞と栄誉だけを求めて、真理や自分の霊魂を高めることについては少しも気にせず、こんなことをしていて、君は恥辱とは思わないのか、という他はない。あなたたちが身体と財宝に向ける熱心な態度を、霊魂の再考可能な完成に向けるように勧告することが、私の役割なのです。」
ソクラテスはアテネ市民に訴えられたがソクラテスはアテネ市民を憎んではいなかった。
ソクラテスは、自分の弟子たちに語るのと同じように、自分のことを目の敵にしている市民たちに自分の信念を語ったのだ。
人間にとって一番大切なものは「徳」から生まれる。このことをソクラテスはどうしても伝えたかったのだろう。
しかしソクラテスは結局死刑判決を受けてしまう。この名言はこの裁判での最後の言葉だ。
ソクラテスの友人や弟子たちは逃げることを勧めたんだが、ここで有名な言葉「悪法も法なり」と言い自分信条を貫き通し自ら毒を飲み判決道理死んでいった。
哲学者たちが国々において王となるのでない限り、国々にとって不幸のやむことはない(哲人政治)
プラトン 『国家』より
どんな人が政治家になればこの世は良くなるにであろうか❓誰しも一度は考えたことがあるのではなかろうか❓
ここでは「霊魂」という言葉がキーワードになる。
この霊魂とは、滅ぶべきもの(人間)と滅ばれざるもの(神)との間に存在していて、神々の言葉を人間に伝える役割であり、また「理性」「気概」「欲望」の3つの部分から成り立っている。このようにプラトンは考えた。
そしてそれを国家に当てはめて考えてみた。一番上には、理性を持つ統治者としての「哲学者」、その下に、気概と勇気を持つ「軍人」その下に欲望を持つ「生産者階級」という三つの部分から成り立つ。
統治者は「智慧」の「徳」を持つべきで、軍人たちは「勇気」の「徳」を持つべきで、生産者階級は「節制」の「徳」を持つべきであると。そうすれば理想国家が生まれると。今の現代はこの構造が逆になっているように感じられてならない。
全ての人間は、生まれつき、知ることを欲する
アリストテレス『形而上学』より
アリストテレスは我々が経験できる様々な事実から、物事を見ていこうとした。我々人間の記憶は経験したことから生まれてくる。この経験の記憶を持つ動物は、記憶力を持たない動物より利口で、教わり学ぶ能力に適しているとした。
この記憶力の他に耳で音を聞く感覚を合わせ持った動物は、より一層教わり学ぶことができるとも考えた。
このように出来事は記憶を経験に生かすことのできる動物は非常に稀であり人間はさらにこれからのことも経験や知識を活かして予測し推理する能力も持っている。それが人間であるとアリストテレスは考えた。これが「人間は、生まれつき、知ることを欲する」ということである。
当たり前のようだが何かを知りたがったり、何かを見たがったりするのはよくよく考えてみると不思議なことである。
仲間にとっての正しさと市民にとっての正しさも同じではなく、その他の友愛の場合についても同様である
アリストテレス 『二コマコス倫理学』
同じ会社の仲間、組織の仲間、遊びの仲間などなど私たちはたくさんの友人に囲まれて暮らしている。
しかし仲間同士の利益や目的というものは、必ずしも国家や世の中の利益や目的と一致しているとは限らない。例えば、会社が自分たちの利益のために不正を働いたとしてもそれは会社の利益にはなるが世のための利益にはならない。
同じ目的を持った仲間が友愛で結ばれて、仲間のためにと考えることはいいことかもしれないがなんでもしていいというわけではない。
なぜなら、会社や友人という仲間同士も国家や社会といったより大きなものの仲間同士であるからだ。
一部の利益のために、全体の利益を失うということは良いこととは言えない。
当たり前のようだが意外と実践することは難しい。
最後に
古典哲学の名言の奥深さに触れ、賢者たちの言葉に共感し、これからも古典の智慧に学び、新しい知識の冒険に旅に出ましょう。古典の知恵とともに次回の旅まで。さよなら。お楽しみに。
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