これは不運ではない。しかし、これを気高く耐え忍ぶことは幸運である。
マルクス・アウレリウス『自省録』より
解釈としては何て自分は運が悪いのだろう、と思うことは人間生きていれば誰しもあることだが、それは逆である。なんて私は運がいいのだろうと思うべきである。
大抵の人は人生の不運に出会ったとき、「私はもうダメだ」「もう無理だ」などと思ってしまいがちだ。しかしこの名言はむしろこの人生の荒波を歓迎しているのだ。「これは、不運ではない。気高く耐え忍ぶ幸運である」と。この考えの転換は人生を生き抜く上で大切な気がする。
人生には、あらゆる場面で障害が出てくるものだ。そんな時こそその障害を逆手に活かして自分自身をよりパワーアップさせていく機会と捉えているのだ。
マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝で、五賢帝の最後の一人で哲人皇帝と呼ばれた人でストア哲学者の最後の代表的人物だ。この『自省録』は若い頃から50代を超えた頃まで、自分に向かって書き続けた本である。
私自身、私にとって大きな謎となり、私は自分の魂に、「なぜ悲しむのか。なぜ、私をを苦しめるのか」と尋ねたが、私の魂は何も答えることができなかった。
アウグスティヌス 『告白』
他人に指摘されて、初めて自分の新たな一面を知ることはないだろか❓自分のことだがわかっていなっことも多い。ここから学べることは、何か自分の核、軸になるような考えを例えば宗教であったり何かしら他のものでもいいが必要であるのではないかということである。
君主は、野獣と人間を巧みに使い分けることを知る必要がある
マキャベリ『君主論』
これの解釈は、政治を行うということは野獣のように強権的な部分と、人間的な法律に乗っとってやる部分というように使い分ける必要がある。
マキャベリといえばマキャベリズムがまず思い浮かぶ。
マキャベリズムとは、目的のためには手段を選ばないというような意味で使われる言葉だ。
だから、マキャベリもそういった思想を持った人だと思う人も多いのではないだろうか❓
一見、この名言も力に頼る強権的な政治を肯定しているようにも見える。
しかし本当にそうなのか❓
マキャベリの名著『君主論』は、14世紀に刊行された本だ。
当時、マキャベリの祖国イタリアは小国分立の状況であり諸外国の侵攻を受けていた。マキャベリはそん状況を鑑みてイタリア統一の必要性を感じた。マキャベリは「私が魂よりも、我が祖国を愛する」といっているような人である。
マキャベリは祖国イタリアのために必要なものは何かを考えて、イタリアを統一できるような強い君主が必要であると考えた。
マキャベリは」それまでの政治と異なり、宗教的、道徳的ではなく非常に現実的に政治を考えた人である。
運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである
マキャベリ 『君主論』
解釈としては、勇猛果敢なチャレンジ精神を持つ人の方に、運命の女神は微笑みやすいというようなことではなかろうか。
決断しなければならない時、というのは誰しもあるだろうがいざ決断するというときは難しい。
この名言が生まれた背景に迫ってみよう。
マキャベリに多大な影響を与えたイタリアの君主がいた。その名はユリウス2世。
もしユリウス2世がボローニャを攻略し、神聖同盟を結びフランスに対抗していなければ諸外国の侵略を受けていただろう。この時に相談をして物事を決めていたらボローニャ侵攻という決断は下せなかっただろうし、侵略も防ぐことができなかっただろうとマキャベリは言っている。
絶体絶命の危機に陥った時、クヨクヨしたり、他人にばかり相談するのではなく、自分の確固たる軸、芯、信念で物事に取り組めば、事はいずれか良い方向に向かうだろう。
チャレンジ精神、アグレッシブな思考が大事で、この決断があれば、運命の女神は微笑んでくれるというのがマキャベリの名言から学べる事である。
あなたは信仰においてすでに十分であり‥‥
ルター 『キリスト者の自由』
解釈は、キリスト者は、内的な信仰によってすでに十分である。それ以上の外的な善行、例えば免罪符の購入などは必要ではないといった意味ではなかろうか❓
ルターといば宗教改革運動の一人として挙げられる。
ルターは聖書の教えに今一度立ち返れといった主張をしている。
また、聖書に立ち返るということは教会の聖職者の特権を認めない、ということにもなる。これが宗教改革の火種になっていった。
キリスト教を信じる者にとっての「自由」とは何か❓
当然私たちが普段使っている意味での自由ではない。美味しいものを食べる自由。好きな友達と遊ぶ自由。好きなことをする自由。
ルターの言う自由はそんな個人的なことではなく「隣人を愛せよ」というキリストの言葉の通りわたしの隣りにいる人々を大事にすることである。 でも、わたしたちが気に入っている友人や恋人、家族、すなわち知り合いだけを大事にすればいいということではない。 世界のどこかにいる人々もまたわたしたちの隣人なのだと考えるのだ。そんなことがこの名言から読み取れる。
最後に
古典哲学の名言5選を通して、知恵深い哲学者たちの智慧に触れ、これらの言葉は時を超えてわたしたちの心に響き私たちに新たな考えや洞察をもたらしてくれる。名言の背後に潜む深い意味を感じながら自分自身の哲学的な旅に出てみよう。ではまた。さようなら。ごきげんよう。
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