近世哲学 名言 5選

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ベーコン (1561〜1626  イギリスの哲学者)

人間の知識と力は、一つに合一する(知は力なり)

ベーコン 『ノヴム・オルガヌム』より

解釈としては、知識は、人生に奉仕すべき力を持つものである。

ベーコンは、「知識」は人間に奉仕すべきものであると考えた。つまり主人公は「知識」ではなく「人間」であるということである。言い方を変えると人間の役に立たない知識は知識にはなり得ないということである。

では、果たして知識とは何なのであろうか。

ベーコンは、正しい知識を妨げる原因は何かをまず考えた。

そして、原因を見つけ、それに「イドラ」(実態のないもの・偶像)と名づけた。それを取り除いた先に初めて正しい知識が生まれるとした。

世の中にはどういった類のイドラが存在するのだろうか❓

ベーコンはイドラは4つに分類できるとした。

  • 種族のイドラ 
  • 洞窟のイドラ
  • 市場のイドラ
  • 劇場のイドラ

1つ目の種族のイドラ。人間という種族が共通して持っている迷信、偏見、固定概念などの何か証拠がある訳でもなくそうだと思い込まれているもの。これらを種族のイドラと定義したんだ。

2つ目は洞窟のイドラ。人が何か物事を判断する際、人それぞれの好み、趣向、習慣、経験などに基づいて判断する。ベーコンは、人それぞれが独自の好みや習慣を持っているということは、人はそれぞれの好み、趣向、習慣、経験という名の洞窟にこもってそこから世間を見ているようなものだと考えた。この狭い偏りのことを洞窟のイドラと名付けた。

3つ目は、市場のイドラ。市場とは沢山の人たちがいるということの比喩であろう。友達同士の噂でも広まっていくうちに言葉はだんだん最初の意味からずれていくことがある。このような言葉というものの不正確さから生まれたのが市場のイドラである。

4つ目は、劇場のイドラ。学者、政治家、専門家など地位の高いとされている権力者などの言葉はその地位による権威性だけであたかもその人たちが正しいことを言っているかのような気がしてしまう。権威がある人の舞台上のドラマ(劇場)に惑わされ信じてしまう傾向が「劇場のイドラ」である。このようなイドラ(偏見、先入観)を自主的に排除することが真の知識の獲得につながる。

デカルト  (1596〜1650 フランスの哲学者)

私は考える、ゆえに私は存在する

デカルト 『方法序説』

解釈としては考える能力があるからこそ、私は存在している。

でもわかりそうでわからないような感じだ。

デカルトは非常に秀才で哲学以外の学問も沢山学んだ。しかしそれらの学問にはどれもあやふやな部分がある。そしてデカルトは、あやふやな部分をなくすためにはどうしたらいいのかを考えた。その結果、これまで受け入れていた知識を一度きっぱり取り除いてみるのが最善だと考えた。

この選択の通り、デカルトは旅に出ることにした。

旅に出て発見したものが「三つの格率」というものだ。格率とは、「判断するための原理」、「行動するための原理」という意味である。

第一の格率‥自分の国の法律と習慣に従うこと。そして一番の良識に従うこと。

第二の格率‥自分の判断で確固として決めた以上は、一貫して従うこと。

第三の格率‥世界の秩序よりも、自分の欲望を変えるように努めること。

デカルトはこの格率に従って、淡々と不確実であやふやなものは捨て去っていった。それでも捨てられない確実なものがあることにある時気づいた。

それは「疑っている自分自身がいつ何時でも存在すること」だった。

あらゆることを疑うことができても、疑っている自分自身が存在することを疑うことは絶対にできない。「疑っている自分自身」が紛れもなく確実に確かなものであったのだ。

パスカル  (1623〜1662 フランスの哲学者)

人間は、自然のうちでもっとも弱い一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である

パスカル 『パンセ』 より

そもそも葦というのは、水辺に生えている、ススキに似た草のことだけど、人間がそれと同じとはどういうことなのだろうか❓

パスカルは、人間と宇宙を比べてみた。宇宙は人間を簡単に死に至らしめることができる。人間はすぐに殺されてしまうようなか弱い存在だ。その弱さを一本の葦に例えている。もっと身近なところで言うと火山、津波、地震、火災などの自然の前では人間はあまりにも無力だ。人間は宇宙や自然に対してあまりにも弱い存在であることがわかる。

けれども、パスカルは人間は宇宙よりも崇高だという。なぜかというと、宇宙は何も知らないからだと言う。人間は色々知っている。人間には考えるという能力が備わっている。自分が死ぬこと、自分が宇宙には敵わないこと、自然の前では無力なことを人間は理解している。

パスカルは考えることは崇高だと考えた。よって考えることのできる人間という存在は崇高だということになる。

色々人間は悩んだり、考えたりするが、そんな時に考えること自体が崇高で人間らしいことなんだとパスカルに言われるとなんか心が軽くなる気がする。

ロック (1632〜1704 イギリスの哲学者)

およそ心の、未だかつて知らなかった命題、意識しなかった命題、そうした命題が心にあるということはできない

ロック 『人間知性論』

解釈としては、人間の心は最初は何も描かれてない。

人間の心は、どういうものかについて考えたことはあるか❓

ロックは人間には、生まれる前から持ってる知性や魂や概念はなく、生まれた後に経験することから形成されると考えた。

つまり、楽しい、悲しいなどの概念は生まれる前から持っているものではなく子供の頃に経験することによって習得していくものだということ。

要するに、人間の心は生まれた時は真っ新だということだ。そこで色々経験することで様々な知識が蓄積されていく。

哲学的に見ると、「善」とは何かと言うと、ロックの考えでは「善」は育ってきた環境や社会によって違う意味を持つものだから、絶対的なものではなく、生得的なものではないといことになる。

スピノザ   (1632〜1677 オランダの哲学者)

全ての高貴なものは、稀であるとともに、困難である

スピノザ 『エチカ』 より

この名言は高貴であるからこそ珍しく手に入れることも困難であるということだろう。

しかし人間は当たり前に身近にあるものに対するものに対して感謝したり幸福であるということ感じずらい。そこの部分こそ本来大事なことではないのかと思うのだ。その気持ちを忘れずにいたい。

最後に

これらの名言から得られる共通のテーマは、人間の思考と存在、自由と束縛、変化の不可避性、他者との関係、そして宗教的価値観の変遷に焦点を当てている。これらの哲学的洞察が、近世における知識と人間の意識の進化を反映している。我々はこれらの言葉から学び、自らの存在や社会に対する理解を深め、未来に向けての洞察を得ることができる。これらの名言は、単なる過去の言葉ではなく、今日においても深い哲学的な考察を提供している。

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